ライトノベルを何冊か読むと、奇妙なことに気づく。表紙も世界観もバラバラなのに、主人公の喋り方や考え方が、なんだか似ているのだ。
学園ものでも、異世界転生ものでも、恋愛ものでも、主人公はだいたいこんな感じ——斜に構えていて、何かにつけて自分にツッコミを入れ、ヒロインに好かれているのに「いやいや、まさか」と否定し、戦闘中も内心で実況解説をやめない。比企谷八幡(『俺ガイル』)も、上条当麻(『禁書目録』)も、異世界に飛ばされた誰かも、語り口の質感が驚くほど似ている。
普通に考えれば、「ラノベ作家がこういうキャラを好んで書くから」だと思える。読者の好みに合わせて、こういう性格の主人公を作っている、と。
でも、逆の説明もできる。
ラノベの文章形式が
そうさせているのではないか。
ラノベの文章には、いくつかの強い特徴がある。一人称で語られる。一文が短い。会話が多くて、地の文は会話の合間を埋めるくらいの分量しかない。風景や歴史の長い描写は嫌われる。読者はテンポよくページをめくっていく。
この条件下で、主人公は何をしなければならないか。
会話の合間を埋めるために、常に何かを考え続けていなければならない。状況を解釈し、ヒロインの仕草にツッコミを入れ、自分の置かれた立場を分析し続ける。黙って世界を観察するだけの寡黙な主人公では、地の文が空白になってしまう。
しかも、感情をストレートに書くと幼稚に見える。「彼女が好きだ」「俺は怖い」と素直に書いてしまうと、ラノベの軽快なテンポから浮く。だから語り手は、自分の感情に対して一歩引いて、自嘲したり、皮肉ったり、メタ的な距離を取ったりするしかない。
ここまで来ると、見えてくる。やれやれ系主人公の冷笑も、過剰な自己分析も、斜に構えた口ぶりも、作者が意図的に作り込んだキャラクターというより、ラノベの文章形式に乗ろうとした結果、論理的にそこへ辿り着いてしまう語り口なのだ。
形式が、性格を作っている。
この見方が正しいかは、確かめられる。三人称で書かれたラノベ、たとえば『キノの旅』を読むと、主人公は寡黙で、ツッコミも自嘲もほとんどしない。語り手が主人公の頭の中に住んでいないから、主人公は喋り続ける必要がない。逆に言えば、一人称形式を選んだ瞬間、主人公はジャンルが何であれ「饒舌な内省者」に近づいていく。
これはラノベだけの話ではない。村上春樹の主人公が似た雰囲気をまとうのも、夏目漱石の『吾輩は猫である』が皮肉な観察者になるのも、一人称という形式そのものが要請している部分が大きい。書き方を選ぶことは、語り手の人格を選ぶことでもある。
普段、私たちは「どう書くか」と「何を書くか」を別の問題として考えがちだ。形式は中身を運ぶ器に過ぎない、と。でもラノベ主人公の話は、その逆を教えてくれる。器の形が、中身そのものを変えてしまうことがある。
何かを書くとき、何かを読むとき。「この形式は、語り手に何を強いているのか」と問うてみる。それだけで、文章の見え方が変わる。